僕は20才くらいのとき「人間が存在しているのにどういった理由があるのか?」「在るというのはどういったことなのか?」という疑念が襲いかかってきた。以来、人間が生きる意味(のようなこと)について哲学とか思想とかの本を読みあさったけれど望むような答えにはたどり着いていない。

ニーチェで虚無ということを覚え、ヴィトゲンシュタインで言語の曖昧さを知り、デリダで言語の脆さを感じた現在は「人間とは何か」との問い自体を疑いつつある。

「それは何ですか?」との問いに答えるには観点が絡んでくる。質問に答える者の観点は学問の分野だったり立場や権力だったりする。「人間とは何か?」が「生物学的に人間とは何か?」「環境保護からみて人間とは何なのでしょうか?」「経営の神様から人間を語ってください」など観点を導入することで文章そのものが変化する。

いまの僕は「コンピュータとは何か?」という質問と「人間とは何か?」という質問を同義として受け止めている気がする。

人間という語の解釈というか人間という語が指している(含む)普遍的な事柄を対象に語れば良いのだろうか。ひとつ、人間について不変である事は生きる事物であることだと思った。だから「人間とは何か?」を「生きるとは何か?」という文に置き換えることができる。

生きるとはどういうことなのでしょうね?生きるもの自身が理解できない力によって動いていることなのかな。。。

こんなことを書いても他の誰かがもっと理解しやすい言葉で僕の文章(質問)を置き換えてくれることで解決することもある。しかも単にボキャブラリの差異によって明瞭な答え(文章)を与えてくれる。

ボキャブラリの豊富さは高度な抽象化テクニックを手に入れることと同じ。言葉を持たない人はコンピュータを設計できないようにも思える。言葉というより記号かな。


最終更新日: 2012年05月13日(日) / カテゴリー: 考え方・発想法


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