子供を見ていて思う。「この子はいま何らかの目的をもって生きているのだろうか?」
子供は刹那を大切にしている。未来を想像したり予測できる能力が無いから刹那的な生きかたになっているのだろうか。
僕は20歳のころ生きている意味を探し回った。それから10年。生きる意味は無く、意味は自分勝手なものだと思うようになった。この世界全体に意味が無いと思っている。
自分の何かを表現するには言葉を始めとする表現手段を用いるのだが、その表現手段というのは生まれてきた後に獲得する(される)ので、意味という名の自己表現も後付けだと考える。
ここで宗教が登場する。人間でもなく地球でもない何らかのチカラという想像物を据えることで、自分の意味を見出すのだ。自尊心が神によってもたらされる。ちょっと麻薬のようなもの。 宗教ってのは社会や地域をコントロールしようとした権力者たちの意志なんじゃないかな。 僕等がテレビや新聞でみる物品の広告も、それを売りたい企業側の思惑が表現されたものである。広告を物語にしたら教典ができあがるんじゃない?
生きる目的は産みの親に聞いてみるのが良いかも。産みの親を辿っていった先に見えるのが神か科学が解明できる何かなのかを知りたいな。僕がなぜ子供を生んだのかって?
- 結婚して子供をつくる予定はなかった。
- けれどセックスした。
- 妊娠した。
- 中絶は社会的に悪だからできない。(妻が拒否)
- 出産。
あとは妻に聞いてみよう。
そっかー。購買や消費(遊び)と同じく。子供ってやっぱり計画的に作らないといけないのかな。現代は物を買うにあたって欲しい物を買う傾向が強く、必要な物を買うという態度が弱い。必要と思ってたものがいつしか欲しいものに変わってるんだよ。 買い物へ行ったときのことを思い出してみよう。冷蔵庫が必要だから電気屋へいった。電気屋には数十の冷蔵庫が並んでいる。はじめは設置スペースから冷蔵庫の大きさを見る。家族構成や生活習慣にあわせて容量を考える。そしたら値段を吟味する。このステップだけで必要だとされる商品は抽出されるが、何十台も並んだ冷蔵庫を目の当たりにすると今度は色が気になってくるし、必要な条件はほぼ同等なんだけど各メーカーの製品を見ていると扉が両開きだとか冷凍庫が2つもあるとか機能に注目するようになる。こんな感じで自分でも気付かないうちに必要性が欲望に移ってくるのだ。
おおよそコモディティー化した商品やサービスは、必要性では無く欲望によって選択されるのだろう。
- コモディティー化とは、目に見える価値次元での開発競争が限界に達して差別化が困難となり、価格のみが価値判断の基準となる状態を指します。特に日進月歩で技術が高度化するIT製品は、コモディティー化が早いとも言われています。
食事に行くときも「何を食べたいか?」ということが先行するでしょう。僕等は食べることが必要であって何を食べたいかなんて考えるのは必要ないんですよ。そりゃぁ同じ物ばかりでは栄養バランスや飽きることもある。けれど、マクドナルドかモスバーガーかどっちでもいいんじゃないの?
あーそっかー。子供もコモディティー(日常品)なんだなー。コモディティーとして扱われ育てられた人間には親からの必要性(おそらく愛情)が欠如しているんだ。親の欲望のみで生まれてきたからそこに意味は無いんだ。意味をあたえられずに育ってきたんだから。
話がもどった。やはり意味ってのは後付けというか、説明されないとわからないんだ。先天的な生きる目的は人類や宇宙のはじまりの時代でしかわからない。はじまりの時代にあたえられた目的や意味が現代に継承されているとは考えにくい。連想ゲームがどんなにおもしろおかしいか知ってるでしょ?
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