つみをにくんでひとをにくまず【罪を憎んで人を憎まず】:: 犯した罪は憎んで罰しても、罪を犯した人まで憎んではならない。 そのつみをにくんでそのひとをにくまず【其の罪を憎んで其の人を憎まず】:: 《「孔叢子」刑論から》罪は憎むべきであるが、その罪を犯した人は憎むべきではない。
この言葉が意味することは「出来事(罪)とそれを行った人とを区別する」ことだ。
私は子供が嫌いだったにも関わらず子を持つようになった。我が子が、自尊心が芽生え始め自己主張するようになり、突然泣いたりわめいたり遊んで欲しいと食事の時間を邪魔されたりするとき、何度も子供を手放してやろうと思ったものだ。 でもある時「私に不都合な状況を起こす原因がこの子でなくても不機嫌になるだろう。だからこの子に腹を立ててもあまり意味が無い」と思った。しかし私にとって嫌なことを起こされるから言い聞かせようとする. 生活を共にする以上互いが気持ちよく過ごしたい。(本当の本当は子供なんて持つべきじゃなかった、結婚なんてするんじゃなかったと考える(後悔する)こともあるんだけど。。。)
私に不都合な状況が起こったとき、出来るだけそれを止めて欲しいことを伝えようとするがうまくいっていないように見える。それはなぜか?ひとつは私自身がどん欲に自分の都合を邪魔されたくないといった意識(性癖)がある。割り込みや干渉を避けて、できるだけ自分や環境をコントロール可能な状態でありたいと強く願う性格の持ち主だからだ。
もうひとつは単純に私の主張が伝わっていないからだろう。伝わるということは私の言った通りに行動してくれるということではない。あくまで私が嫌な気分になるだろうなということを気付いてもらえれば良いのだ。 話し合いをしっかりできていないことが原因だろうか?私がその出来事によってどのような感情になるのか?お互い気持ちよく過ごすにはどうすればよいのかを共に考えると良いと思う。
対話を避けることは「許し」ではなく「無視」に近いかもしれない。
あえて”しかし”というのなら、罪を引き起こす物はかならず在るということだ。これには我慢ならない?物が在ることは排除したい接触したくない。ただ、あくまで物であってその物が罪を犯すように作用する原因はまた区別するのが良いだろう。
少し話はそれるが、時には私が忌み嫌う態度が社会生活を営むうえで賢明でないことを示さないといけない。特に命に関わるようなことは厳しい態度で挑むのだ。強制的に改めさせなければならない。
今は多くの人が「失敗した人、間違った人、罪を犯した人」を許さないようになってきつつある。殊に、人の命に関わるようなことは、たとえそれがほんの出来心だったり、つい魔が差してだったりしても「犠牲になった人のことを考えてみなさい! あんたなんか社会から抹殺されるべきよ! きいいいいい」というのが当然のようになりつつある。 なぜそうなってしまったのだろう。僕は、その最大の要因が「想像力の欠如」にある、と思っていた。自分が陶酔できる、自分に取って都合のいい立場には容易に想像が及ぶが、自分に取って不快な立場のことは「私には想像もできません!」と切り捨てる。そういう人間が増えたからではないか、と思っていた。 だが、どうもそれだけでは理由としては弱い気がする。もっと根本的な部分での変化が何かあるのかも知れない。・・そこで、ふと思ったのだ。多くの人が、「自分と同じレベルの人間だけしか知らずに成長するようになった」からではないのか。成績も、経済力も、社会的地位も、教養も、「だいたい自分と同じぐらい」の人ばかりとしか、みんなつきあわなくなってきている。だから、「自分とだいたい同じ」以外の人間がいることなど考えないし、そんな人間は自分とは無縁の連中なのだ、と無意識に思っている。そういうことじゃないだろうか。 自分以外は、みんな自分とは違う人間なのだ。——それは、昔は当然の理だった。今では「誰もがみんな、自分と同じような人間なのだ」ということを真理とする人間たちが増えたのだろうか。・・・あちこちで報道される、一件些細な事件をみるにつけ、そうしたことを僕は考えてしまうのだ。 世の中は、自分とは全く違う人間によって成り立っている。そのことに、君はなぜ気づかないの?
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